今回の「バンダイムコ知新」は、「カーレースゲームの変遷」の後編ということで、前編に引き続き、1990年代後半から現在まで、ナムコのレースゲームのプロデュースに携わったメンバーによる座談会をお届けします。時代の流れとともに、ナムコのレースゲーム制作の内容と、その挑戦がどう変わっていったのか、ぜひ前編とともに読み比べてみてください。
第2回 カーレースゲームの変遷(後編)
岡本達郎
1983年、ナムコ入社。『ファイナルラップ』から始まり、『エースドライバー』『ダートダッシュ』『レースオン!』『500GP』など、数々のレースゲームの制作に携わる。『メトロクロス』のデザイナーとしても知られ、主人公は岡本氏がモデルとなっている。 近年は、スマホゲーム『ドリフトスピリッツ』の制作に携わった。
小山順一朗
1990年、ナムコ入社。1999年までメカエンジニアとして従事。のちに企画、プロデューサーに転身。手掛けたレースゲームは『湾岸ミッドナイト』『マリオカート アーケードグランプリ』『トラック狂走曲』など。現在、バンダイナムコアミューズメント プロダクトビジネスカンパニー クリエイティブフェロー 。コヤ所長の愛称でも有名。
小林景
1991年、電気回路の設計や配線をする電気エンジニアとしてナムコに入社。2000年に、企画、プロデューサーに転身。『湾岸ミッドナイト』や『湾岸ミッドナイト マキシマムチューン』シリーズ、『マリオカート アーケードグランプリDX』などの作品に携わる。現在、バンダイナムコ アミューズメントラボ 開発本部 本部長。
体感面とサウンドに優れた『エースドライバー』
小山:自分がナムコに入社した1990年は、まだポリゴンが出たばかりだったんですけど、最初は、筐体の構造とか機構部とか、そういうのを設計するメカエンジニアとして入ったんです。
小林:僕は1991年に、電気回路の設計や配線をする電気エンジニアとして入社しました。一番初めにエンジニアとしてかかわったのが『リッジレーサー ※1』(1993年) になります。「車大好きです。レースゲーム作りたいです」と言って入らせてもらったので、レースゲームに優先的にアサインしてもらっていた感じですね。『ダートダッシュ ※2』(1995年)や『レイブレーサー ※3』(1995年) もエンジニアとしてかかわりました。
※1 『リッジレーサー』
1993年稼働。テクスチャーマッピングやグーローシェーディングにより、映像が飛躍的に進化したレースゲーム。公道を突っ走る快感を追求し、コーナーでは豪快なドリフト走行が味わえる。アーケードと家庭用ゲーム機で多数の続編も作られている。
※2 『ダートダッシュ』
1995年に稼働。シティコース、山道、ジャングル、雪原など、あらゆるコースを突っ走るオフロードラリー。障害物にぶつかって車の部位が取れても走れるダイナミックさが魅力。
※3 『レイブレーサー』
1995年に稼働したレースゲーム。アーケード版『リッジレーサー』シリーズの第3作目。コースが2つ追加され、ボタンによる3人称視点モードが搭載された。
――小山さんと小林さんは、ビデオゲームの企画やプロデュースをされる前は、エンジニアだったのですね。
小山:はい。『エースドライバー ※4』(1994年) は、岡本さんと一緒にやりましたよね。
※4 『エースドライバー』
1994年稼働。『リッジレーサー』と同じ基板「システム22」を使用したレースゲーム。DXタイプではハンドルと連動した左右スライドシートを採用。さらに、BOSE社と共同開発したサウンドシステムにより全身でレースの醍醐味を味わえる。
――企画が岡本さんで、設計が小山さんということですね。
小山:そうです。『エースドライバー』の体感システムはすごくて、本当に走っているんです。ハンドルを切ると、ハンドルの切れ角によってタイヤも曲がるんです。
岡本:すごいレスポンスがよくて、ハンドルをちょっと切っただけでスッと動くんで、もうレーシングカートに近いような挙動の感じだったんです。
小山:そうです、そうです。 技術研究の一環でカートを乗りに行かせてもらいました。
岡本:すごくいい出来なんですけど、いろいろな問題があったんだよね。筺体を壁にピッタリつけられると椅子が動いて寄ってきて、人が挟まって危ない。だから、スペースを空けて設置するように、注意書きを書いたり……。
小山:柵をつけたり。苦労しましたね。
岡本:ちなみに『エースドライバー』の第1ロットにはBOSE(※5)のスピーカーを入れました。
※5 BOSE
米BOSE社。スピーカーを主とした音響機器 メーカー。マサチューセッツ工科大学の教授であったアマー・G・ボーズ 博士により 設立。
――ゲーム専用のサウンドシステムを、BOSEと共同開発されたんですよね。
岡本:5万円ぐらいですよ、1個。だから、4つ買ったら20万円ですよね。値段が高いから「なくていいんじゃないの?」と言ったんだけど、サウンドの人が「どうしてもこれは要る」と。でも、やるというのは重要なことなんだよね。やってみないと分かんないことがいっぱいある。音は本当に最高に良かったですけど、値段の差が僕にはよく分からなかった(笑)。その時、お金もあったんですかね、バブルで。
何でもアリのスーパーご長寿ゲーム『レースオン!』
――1990年代後半ですと、岡本さんがかかわられたレースゲームは……?
岡本:『レースオン! ※6』(1998年) は僕がやりましたね。みんながワイワイ騒げる楽しいレースゲームにしようという感じで作りました。このころ、だんだん難しいゲームが受け入れられなくなる流れがあった。でも、プリントシール機でゲームセンターに来るような女性でもやれるようなレースゲームを作ろうと。だから、ハンドリングとかめちゃくちゃ優しく作っているんです。追いつき性能もすごくて、どんなに離されても必ず追いつくぐらいにできている。
※6 『レースオン!』
1998年稼働。小型カメラ「ナムカム」を搭載し、ゲームに自分の顔を出せるのが特徴。最大8人まで通信対戦でき、ぶつけたり邪魔したり何でもアリの破天荒なレースが楽しめる。
――初心者が置いていかれない配慮がなされているわけですね。
小山:ぶつけ合いも楽しいですし。世の中で初めてだと自分は思いますけど、『レースオン!』には実況システムが入っている。顔写真も撮って(後述)、レースの実況もあって、今で言う当たり前なテクノロジーが、その当時初めて入っていて。
岡本:でも、とんがった人たちにはあんまり刺さらなかったですね。
小山:はい、マニアには……。
岡本:ロケーションテスト(※7)やっても、普通のゲームぐらいの反応しかなくて(笑)。
※7 ロケーションテスト
アーケードゲームを世に出す前に、ゲームセンターなどで行われるテスト。ゲームバランスの調整や市場調査などの意味合いを持つ。
小山:でも『レースオン!』は、そこから20年間ずっとゲームセンターにあります。そのとき周りで騒がれていたゲームは、今はほぼ現場から消えていますから。
――爆発的ではないけれども、長年ずっとインカムが安定しているということですね。
岡本:当時、販売の人から「インカムが上がらないと売りにくい」と言われた。でも1年ぐらい経ったら、その人が「もう1回『レースオン!』って作れないか?」と言い始めて(笑)。インカムが安定して変わらないんですって、ずーっと。だからゲーセン側も「あのゲーム欲しい」と言ってくるみたいで。
――自分の顔を撮影してゲームに取り込める「ナムカム」を『レースオン!』で採用した経緯をお聞かせください。
岡本:何でも新しいものを技術の人が作ってくれるので、ゲームに新要素を採り入れる一環として導入しました。ゲーム自体はもともと作ると決まってたものなので、そこに新しい試みとして顔写真を入れようと。最悪、外すつもりもありました。プログラマーがノリノリでいじってくれたんで、いい演出ができたと思いますね。顔が飛んでいったりするんですよ。クラッシュすると、アイコンとかがビヨーンと飛んでいく。
――これは自分の顔がゲーム中にモニターに映るということですよね?
小山:そうです。車の上にタグのようにつきます。1台1台、上に。
岡本:誰が運転しているか分かるように。
小山:名前がなくていいんです。
小林:『レースオン!』のころはまだ、筐体間の通信もとても遅かったし、画像データってゲーム機の中で、非常に重いものなんですよね。なので、その転送にすごい苦労してましたよね。
――相手カーにぶつけたり、邪魔したりして楽しむレースゲームは、『レースオン!』以前にもあったでしょうか?
岡本:推奨はしていませんでしたが、それは『ファイナルラップ ※8』(1987年) のころからやってる人たちがいっぱいいて。
※8 『ファイナルラップ』
1987年稼働のレースゲーム。最大8人までの同時プレイを実現した通信対戦は、当時の快挙として語り継がれる。のちに、『ファイナルラップ2』(1990年)、『ファイナルラップ3』(1992年) 、『ファイナルラップR』(1994年) と3作の続編も誕生した。
――ああ、プレイヤーサイドのほうで。
岡本:そう。ケンカが起こったとか、そういうのも聞いていて。でも、「ぶつけるのって楽しいよね」みたいな話は連綿と続いていたので、そういうワイワイゲーの最たるものとして出来上がったよね。
小山:『エースドライバー』のころは車体がヒットしても弾かれないんです、ほとんど。だけど、『レースオン!』はボーンってめっちゃ弾くんで。
――そのあたりを特化させたのが、『レースオン!』という作品だったのですね。
本物のレーサーもハマった究極の二輪筺体『500GP』
小山:この頃、岡本さんはバイクレースゲームの『500GP ※9』(1999年) に命をかけてましたよね。
※9 『500GP』
1999年稼働のバイクレースゲーム。世界各国を転戦して世界一のライダーを決める「FIMロードレース世界選手権」の雰囲気を、余すところなく忠実に再現したのがこの作品。レースで活躍する選手が実車とともに実名・顔写真入りで登場。
岡本:『500GP』はちょっと、かけ過ぎましたね(笑)。
小山:1分の1のバイクを乗せた筺体が3種類あるんです。スズキとホンダとヤマハと。それが全部違うんです。狂ってます(笑)。
岡本:作るかどうかも決まっていない状態で、ライセンスだけ取っちゃったんですよ。ライセンス系の人が。で、「作れ」と言われて、「じゃ、作りますよ」と作ったんですけど(笑)。映像的にはもう当時としてはめちゃくちゃきれいだと思います。ほぼ実写のような。
小山:しかも3台筐体を並べていて、真ん中のバイクに乗ってお金を3台分入れると、3画面1人で遊べるんです。
岡本:『500GP DX』(1999年)でね。特別にホンダとヤマハとスズキのバイクの筺体を作って、3台セットで売りましょうみたいな話で、ちょっと高額な感じでやったんです。
小山:金の限りを尽くしましたよね、これ。
岡本:「ツインリンクもてぎ」っていうレース場があって、実際の「500GP」というレースが開催されていたんですけど、当時そこにプロモーションの一環としてゲーム筺体を持っていって、本物のレーサーにやってもらったらめちゃくちゃハマって……。開催日は予選が終わったら、お客さんに無料でやってもらったんですよ。そうしたら、本物のレーサーがその列に並んでて(笑)。
一同:(爆笑)
小山:お客さんと一緒にやるんですか?(笑)
岡本:「何してるの?」と聞いたら「いやいや、やるんだよ。やらせてくれ」と(笑)。アレックス・バロス(※10)というレーサーなんですけど。「じゃ、その代わり、ほかのお客さんと通信でレースができるんで、一緒にやってあげてくれる? そうしたら、好きなだけやっていいから」と言ったら、「うん、やる」と言ってね、いろんなお客さんがバロスと対戦していた(笑)。
※10 アレックス・バロス
本名、アレッシャンドレ・バロス。1970年生まれ。ブラジル出身のオートバイライダー。アグレッシブなライディングスタイルを武器に、ロードレース世界選手権のトップライダーとして活躍。2007年現役引退。
小山:本当のバロスと、ずっとやり続けられるんですか! 彼はどんどんうまくなっていったんですか?
岡本:めちゃくちゃうまかったですね。
小山:へえ~!
岡本:だから、そういう本物志向の人にはうまくアピールできたんだけど、一般向けという意味ではあまりアピールできなくて。僕は「映像自体本物なので、思いっきりやっちゃおう」と言ってやったんですけど、ちょっとやり過ぎ感が(笑)。
――でも、その本物のレーサーも納得するほどの出来だったということですね。
小林:岡本さんも小山さんもバイク好きですからね。バイクに興味ない自分は、横で「んー?」と首をかしげてましたけど(笑)。
岡本:「何だこんな金かけて」みたいな?(笑)。でも、究極の二輪筐体が実現したので、僕は満足です(笑)。
トラックを細かく研究して作られた『トラック狂走曲』
――2000年には、『トラック狂走曲 ※11』 というアーケードゲームが登場しています。
※11 『トラック狂走曲』
アートトラックをモチーフにした、2000年稼働のドライブゲーム。アートトラックの持つ独特の世界観を十二分に表現し、プレイヤーをトラックドライバーになりきらせる。基本ゲームシステムは、エリアクリア型のドライブゲーム。
小山:『トラック狂走曲』の企画は僕です。このときはですね、まず企画の人たちが家庭用ゲームに専念して、みんな業務用の部門からいなくなっちまったんです!(笑)。業務用のスタッフはもう、1人もいなくなって。それで「なんとか食っていかなきゃね」ということで、自分とか小林くんとかが、突然このあたりから企画になったわけです。
――エンジニアだった小山さんと小林さんが、2000年からプランナーに転身されたわけですね。
小山:『トラック狂走曲』はもう「ネタ」ですね(笑)。レースゲームは、歴史としては、まず最初はF1系で始まって、それで公道型になりますよね。公道型といっても、箱型のレースが中心で。その後、だんだん各社のレースゲームがおかしくなってくるんですね。もうレースゲームのアイデアが切れたのか、各社がネタものをいっぱい出してくる時代だった。
――『トラック狂走曲』はそういう流れで制作されたんですね。
小山:はい、各社ネタが尽きてしまいまして。だから、各社おかしいんだったら、自分はヒューマンの『爆走デコトラ伝説 ※12』(PS/1998年) が好きだったので、アーケードでデコトラやろう、と。ただし、本当にちゃんとやろうということで、『カミオン』に取材に行ったりしました。『カミオン』って、アートトラックの専門誌なんですけど。
※12 『爆走デコトラ伝説 男一匹夢街道』
1998年に、ヒューマンから発売されたプレイステーション用レースゲーム。デコトラ(ペイントや電飾などで装飾されたトラック)を操作し、日本一のトラッカーを目指す。その後、多数の続編が発売された人気タイトル。
――本作にはちゃんと、登場する4人のトラッカーのストーリーがあるんですよね。
小山:そうなんですよ。で、当時ナムコで「社長発表」というのがあったんですけど、中村雅哉社長 (※13)は、出るゲームを全部やるんですね。このゲームは、悪いことをするとひどい目にあって必ずゲームオーバーになるという仕組みを持っていまして。電車の線路にいる猫を踏もうとすると「ニャーン!」とかいって、トラックが道を曲がって線路の中に走っていくんです。そうすると、向かってきた電車とぶつかってしまい……「父ちゃーん!」という叫び声とともにゲームオーバー。その「父ちゃーん!」のシーンで中村社長、ずっと固まってました(笑)。
※13 中村雅哉
1925年生まれ。1955年に有限会社中村製作所を創業。1977年に社名をナムコへ改める。2017年死去。
小山:みんなこれだけは「やっちまったー!」って顔でもう。僕だけは大爆笑していましたけど(笑)。
――このゲームに入っていた演歌は、書き下ろしですか?
小山:違います。冠二郎氏(※14)の曲で、特撮っぽい歌があったんですよ。それがその当時流行っていたので。AOU アミューズメントエキスポでは、デコトラを借りてきてステージにして、大木凡人氏(※15)を司会にして、冠二郎氏に歌ってもらったこともありました(笑)。
※14 冠二郎
演歌歌手。1967年、ビクターレコードより『命ひとつ』でデビュー。1976年、コロムビアレコードへ移籍。以来、数々のヒット曲と受賞歴、3度のNHK紅白歌合戦出場を数える。2016年、31歳年下の一般女性と入籍。
※15 大木凡人
司会者・レポーター。愛媛県出身。コミカルな芸風とは裏腹に、武道に関する造詣が深い。かけている眼鏡はだて眼鏡。
――デコトラの外装なども研究されたのでしょうか?
小山:研究しましたねぇ。このトラックの波の絵? これを波絵(なみえ)というんです。女の名前じゃないですよ(笑)。デコトラ界でカリスマの波絵師が茨城に住んでおりまして、その方に波絵を頼みに行きました。『カミオン』も太鼓判を押している方だったんで、「この人のところに行こう!」と。本当に有名人で、何年待ちとか言われているような方だったのに、大きい絵をすぐ描いてくれたんです。
――そこまで細部にこだわられたわけですね。トラックだから挙動が違うとか、普通のレースゲームと作り方が違う苦労はあったのでしょうか?
小山:そうですね。トラックだから視点が高いじゃないですか。視点を高くすると、車のゲームって速度感がなくなる。ゆっくり動くように見えてしまうので、時速300キロぐらいで走っています(笑)。で、画面には「60km/h」って出ている。
――なるほど。
小山:あと、トラックでドリフトとかスピードを極めてもしょうがないので、どういうふうにしたかというと、車をぶつけたら減点というルールになりまして。反対車線をはみ出してどんどん行きたいじゃないですか。そのときにぶつかるとマイナス2秒となるわけです。人は絶対ひいてしまわないように、「キャー」と逃げるようにしてましたけど(笑)。そういう、ちょっと社会のモラルから逸脱したような「はっちゃけた体験ができるよ」というところにフォーカスするために、すごいギリギリのせめぎ合いを法務とやったんです。
――レースゲームの歴史の中で、『トラック狂走曲』のようなアクセントのある作品があったのというのは、とても興味深いですね。
悔しさをバネに改良を続けた『湾岸ミッドナイト』シリーズ
――そしてついに『湾岸ミッドナイト ※16』(2001年) が登場します。制作の経緯を教えてください。
※16 『湾岸ミッドナイト』
2001年稼働の業務用対戦バトルレースゲーム。。楠みちはるの人気漫画『湾岸ミッドナイト』をゲーム化した。『湾岸ミッドナイトR』、『湾岸ミッドナイト マキシマムチューン』シリーズなど、現在まで多数の続編、派生作品が誕生している。
小山:次のレースゲームをどうしようか考えているときに、小林くんに「『頭文字D』とか、そういう漫画の題材つきのゲームはどうかねぇ?」と話したんです。すると小林くんが、『湾岸ミッドナイト』のほうを推してきた。彼が持ってきた『湾岸ミッドナイト』を読んでみたんですけど、めっちゃ硬派なんですね。暗くて(笑)。でも、「これが本物や!」と言われたらそうなのかなと思って、それを持って当時、元気さん(元気株式会社)に開発を依頼に行きましたね。
――そのとき、題材の候補は『湾岸ミッドナイト』と『頭文字D』のほかにもあったんでしょうか?
小林:いや、その2つですね。車漫画といえば、その時はもう、その2つが代表で。まぁ『頭文字D』の1人勝ちだったんですけど、その陰に『湾岸ミッドナイト』があったんですよ。
――では『湾岸ミッドナイト』を選んだ理由は?
小林:とにかくレースゲームにドラマ性を持たせたいとか、泣かせたいとか思ったんで、それには『湾岸ミッドナイト』のほうが合っているかなという。まぁ、かなりの思い込みですね。 友人の古代祐三氏(※17)に依頼して、音楽面でも泣かせようとしましたね。
※17 古代祐三
ゲーム音楽を手がける作曲家、ゲームプロデューサー。エインシャント代表取締役社長。代表作に『イース』『ソーサリアン』『アクトレイザー』『シェンムー』『湾岸ミッドナイト マキシマムチューン』『世界樹の迷宮』など。
小山:小林くんが「古代祐三ってやつがいてさ」と言うんですね。「えー! 古代祐三を知ってるの?」と言ったら、「高校の同級生でよく一緒に遊んでいました」と。
小林:当時、古代氏はいろんな音楽制作の中でけっこう疲れていたらしくて、「もう音楽はやめようと思っているんだ」と言っていました。そこで、今回の企画の熱さを伝えて……。レースゲームだけど、アーケードだけど、泣けるものを、とにかく感動できるものを作りたい。「そういう作品を作るためには、古代、お前の曲が欲しいんだ」みたいな話をして、書いてもらいました。
――説得をしたわけですね。いいお話です。それは、『湾岸ミッドナイト』無印のお話ですか? それとも『湾岸ミッドナイトR ※18』(2002年)や『湾岸ミッドナイト マキシマムチューン(以下、マキシマムチューン) ※19』(2003年)ですか?
※18 『湾岸ミッドナイトR』
『湾岸ミッドナイト』の続編となるレースゲームで、2002年稼働。前作では隠しカーであった「悪魔のZ」など、ライバルたちのマシンが使用可能になり、28種類ものマシンでレースを楽しむことができる。
※19 『湾岸ミッドナイト マキシマムチューン』
『湾岸ミッドナイト』の流れを組むレースゲームで、2003年稼働。誰もが簡単に楽しめる、ナムコの新ドライブゲームエンジン「ENMA(エンマ)」を採用。ストーリーモード、タイムアタックモード、乱入対戦モードの3つが用意され、車両は全6メーカー19種類が登場。現在この『マキシマムチューン』は6まで(とその派生作品が)誕生している。
小林:無印からですね。
――レースゲームをキャラクター寄りにした理由というのは?
小山:今までレースゲームのキャラクターものはなかったから、自分たちが最初に出そうと思うわけですね。それには、やっぱり元ネタがあったほうがいいなと思いました。『トラック狂走曲』とかやっていて。
――なるほど。その流れで原作つきレースゲームを作ろうと。
小山:『湾岸ミッドナイト』って、車のところにキャラクターが出てきてセリフをしゃべるようになっているんですね。最初、今までのレースゲームで名前しか書いていないところに、キャラクターを重ね入れて実験してみたんですが、Aというスカイラインが「誰々のスカイライン」に変わるので、走行する車の動き自体にも、何かちょっとクセや人間味が出ている感じになって、格段におもしろくなったんですね。CPUと戦っているだけなのに。今までは1位、2位、3位の順番のNPC(ノンプレイヤーキャラクター)の車という意味でしかなかったものが、キャラクターを乗せたらめちゃおもしろくなったので、「それはいくしかないよー」と動き始めたんです。
小林:実はその後のAOU 2002 アミューズメントエキスポで、うちの『湾岸ミッドナイト』と、セガさんの『頭文字D Arcade Stage ※20』(2002年) が、同時にお披露目となったんです。
※20 『頭文字D Arcade Stage』
2002年セガ稼働。しげの秀一による漫画『頭文字D』が原作のレースゲーム。漫画に登場するキャラクターたちとカーバトルを行い、愛車をチューニングしていく。現在までに、多数の続編が誕生。
――2大車漫画のレースゲームが、同時に……!
小山:向こうは、めっちゃ人気があって。こっちも、それでもロケテストは、けっこう良い結果だったわけです。でも、あとで『頭文字D』のインカムを聞いたら、1台あたりが向こうは(うちの)6倍で、圧倒的ですよ 。「『頭文字D』にしとけばよかったじゃないか!」とは言わなかったですけど(笑)。
――インカムがそこまで違ったことに対する心情は……?
小林:相当あれは悔しかったですねぇ。でもその後、それをバネに『湾岸ミッドナイト』シリーズが続いていくんですよ。
――『湾岸ミッドナイト』シリーズは現在まで続いていますものね。『湾岸ミッドナイト』無印があって、『湾岸ミッドナイトR』があって、『マキシマムチューン』シリーズが『6』まで誕生しています。
小山:他社のゲームを研究して、いろいろと改良を重ねていきましたね。
小林:研究しながら、「ならでは」という部分も追求していきました。ストーリーモードをクリアしていくと、どんどん車がパワーアップしていく。そういう概念は『頭文字D』にもなかったんですね。スタッフが車好きばっかりだったんで、初めはやっぱり企画会議でマニアックな路線へいくんですけど、「いやいや、そこはもっと普通のお客さんの目線で考えようよ」とみんなで思い直して。超シンプルに、もうハンドリングかパワーか、どちらかに振ります……と。それでもお客さんには十分なんですよね。ちゃんと、自分の好みや思いで愛車をどんどんセッティングしていくというニーズが満たせるようにしていきました。
小山:それまでは、けっこう思い込みでゲームを作ってたんですよ。そうじゃなくて、きちんとマーケティング的なアプローチで商品開発しなきゃいけないなと気づいたので、『マキシマムチューン』シリーズはそれまでと全然違います。お客さんのターゲットも決まったけど、競合商品である「『頭文字D』を追い落とす」という目標もはっきりと決めました。
――『マキシマムチューン』シリーズからは、そういった方向性の変更がなされているのですね。
小山:はい。
――自分の車のデータを記録できる磁気カードは、どのタイトルから導入したのでしょうか?
小林:磁気カードは『マキシマムチューン』からです。先行して『頭文字D』が磁気カードを採用したんですね。記録して何度も遊べるのはいいねということになって、それをじゃあ、うちではもっと魅力的なものにして採用しようと。『頭文字D』の場合は、名前とクリアしたところが印字されるだけなんですが、うちは情報を何度も書き換えられるほうがいいよねって。で、クラスを付けました。最初はN級から始まって、C級、B級、A級とか。乗っている車も名前を書きましたし、あとは称号ですね。今ではもう当たり前のように、称号ってゲームで何でもついてますけど、けっこう走りですよね。
『湾岸』シリーズのさまざまな挑戦と、長く続いている理由
――技術的に、ドライビングシミュレーターとして、『リッジレーサー』以降のビジュアル面の苦労にはどういうものがありましたか?
小山:『マキシマムチューン』では、実は道幅が今までの1.5倍から1.8倍、建物の高さが東京タワー3倍ぐらいの大きさだったりするんですね。それは、カメラを積んで首都高を撮った映像を画面で見ても、実際に走って感じた首都高の雰囲気と全然違うと思ったのが発端なんです。「これはもしかしたら、目で見た光景を脳が再生したものと、カメラの映像では感じ方が違うんだな」と思ったんです。そこで、当時デザイン担当だったスタッフを車に乗せて、目で見た風景をスケッチブックにずっと描いてもらいました。首都高を走っている車の中で、延々とデッサンです(笑)。
――すごい。具合が悪くなりそうな努力ですけど(笑)。
小山:実際に具合が悪くなっていたんで、かわいそうなことをしました(笑)。でも、そのおかげで『マキシマムチューン』では、4対3の画面の中に、実際に脳で見た首都高の姿が完成しました。あれはすごかったですね。「あっ、これが首都高だな」という印象になりました。
小林:ハードの描画のパワーが上がってからは、さらにそこが重要になってきましたね。カメラで写した画角そのままじゃなくて、いかに人が感じるような見え方にするかということに気を遣うようになった。『湾岸』無印と『マキシマムチューン』では、やっぱりもう見た目が全然変わっています。そこは1から作り直していますから。
岡本:観覧車なんか、ものすごいスピードで回さないと回っているように見えない。止まっている絵になっちゃうので、観覧車がすごいスピードで回っている作品もある(笑)。そういう嘘はたくさんついていますね。
――『マキシマムチューン』のウリである、ストーリーモードのシナリオ作りでの苦労はありましたか?
小林:とにかく原作漫画をひたすら読みました。エイジ編とかマサキ編とかいろんなのがあるんですけど、そういうシナリオを10話の中に落とし込むんですね。まず原作を読んでセリフを全部抜き出しました。そこから「これが名ゼリフだよね」というのを拾い出して。それが(ゲームの)第何話のレースに出てくるのか、当てはめていく作業をひたすらやっていましたね。自分は当時ディレクター兼プロデューサーだったんですけど、人手が足りないので自分も現場でそれを延々とやっていました。
小山:初代『マキシマムチューン』は20話しかなかったんですけど、『マキシマムチューン2』(2004年)は80話もあったから、大変でしたよね。
小林:自分が作った79話と80話は今でも名作だと思っています(笑)。
小山:苦労した思い出で泣くだけでしょう(笑)。
小林:いやいや、あの演出はもう絶対泣けます(笑)。
――『湾岸ミッドナイト』シリーズが、これだけ長く続くというのは、当初は想像されていたのでしょうか?
小山:思っていなかったです。でも、『頭文字D』と戦うことに関しては、「『鉄拳 ※21』(1994年) と『バーチャファイター ※22』(1993年) の関係になろうよ」と言っていました。もうプロデューサーとしては、本当は『4』が作りたい、『5』が作りたい、世界同時発売したい……などと考えているのに、会社の予算とのせめぎ合いで、ちょこちょこ『DX』や『DX Plus』など派生作を作ることになって大変でしたけど(笑)。
※21 『鉄拳』
1994年に稼働した、ナムコ初の3D格闘ゲーム。4つの打撃ボタンや10連コンボ、そして個性的なキャラクターなどの独自の内容で、他社の対戦格闘ゲーム とは一線を画していた。いまなお新作登場のたびに大きなセールスを記録中。
※22 『バーチャファイター』
1993年にセガより稼動した対戦型格闘ゲーム。世界初の3D格闘ゲームとして話題になる。「新宿ジャッキー」や「ブンブン丸」などの通り名を持つ名プレイヤーも生まれた。
小林:問題は、じゃあどこを変えて出すの? というところですよね。車種やコース追加以外での目玉って、そうそうないですよね。だから、そこがけっこう大変ですよね。
小山:ただ、これだけの速度でいろいろと出したおかげで、ずっと鮮度が高い状態が続いて、お客さんとしてはなかなか飽きるヒマがない状態になるわけです。だから、結果的にはあながち悪くなかった感じですね。『バーチャファイター』 に対する『鉄拳』も、たくさん出してよかったですもんね。結局それで、予算もいい方向に働くんですね。
――制作サイドが考える、本タイトルが長く続いて成功している理由を、お聞かせいただけたらと思います。
小山:それは一言で言うと、本当に消費者のために作っているから。
一同:(笑)
小山:いや、本当です、本当です。そこだけしかやっていないです。『湾岸ミッドナイト』のお客さんは誰なのかを、プロジェクトメンバーがトップから下まで全員知っていて、叩き込まれているということですね。
小林:そうですね。まぁ、もっと分かりやすく言うと(笑)、とにかく高校生から大学生ぐらいの若者にすごく支持してもらっていることが、長く続いている理由だと思います。普通こういうゲームってナンバリングが続いていくと、どんどん先鋭化して、どんどん難しくなるし、 人口も少なくなっていく。
ただ、『湾岸ミッドナイト』というのはそこの間口をすごーく広く設定していて、誰でも入ってこられるものにしているので、卒業した人がいても、次に高校生になった人がまた入ってくるんですよね。なので、これだけ続いているんだと思います。1プレイですぐにおもしろさが分かるし、友達に自慢しやすくて魅力が伝えやすいことなどを、とことん考え抜いて仕様として突っ込んであります。
それが今、小山が言っていた「消費者のために作っている」ということの中身ですね。
『マリオカート』のアーケード移植で多くを学ぶ
――『マリオカート アーケードグランプリ ※23』(2005年) についてもお話を伺えますか。
※23 『マリオカート アーケードグランプリ』
2005年稼働。任天堂が発売した『マリオカート』シリーズのアーケードゲーム版で、ナムコが開発した。自分の顔がゲームに入るナムカム搭載。リライタブルカードにデータを保存できる。グランプリモード、タイムアタックモード、通信対戦モードの3つのゲームモードが用意されている。
小山:こちらの言い出しっぺは私でして。自分は岡本さんの『レースオン!』のシステムがお気に入りだったし、『マリオカート』をアーケードゲームで作りたいと思い企画書を書いたんですが、任天堂さんに1つだけ「小山さん、これはやめてください」と言われた要素がありました。マリオがルイージの首にプスって吹き矢を刺すと、ルイージがガクッとなるんですが、「こういうのはやめたほうがいいです。ルイージが痛そうじゃないですか」と(笑)。
――確かに、マリオのイメージではなさそうですね(笑)。この作品も『レースオン!』と同様にナムカムを導入されているわけですよね。
小山:そうです。『レースオン!』リスペクトです。
――他社の家庭用ゲーム機の移植としての苦労はありましたでしょうか?
小山:ターゲットが大きく異なっていましたね。本作を最初に売ろうと思ったのは、いわゆるゲームセンターで、カップルや友達どうしでカードを作って継続的に遊んでもらおうと考えていました。でも実は、一番爆発したのはそこではなかったんです。イオンです。イオンで中心的にカードをガーッと消費していたのは、小学生だったのです。それが分からなかったですよね、最初。
小林:そうですね。
小山:小学生があんなに継続的に遊んでくれるとは思っていなかった。なので、ターゲットを切り替えて、完全に小学生やファミリーが楽しめるようにチューニングしきったのが『マリオカート アーケードグランプリ2 ※24』(2007年) です。『1』はどっちつかずですが、『2』は完全に、ショッピングセンターに売ることを最初から考えて作ってありますね。
※24 『マリオカート アーケードグランプリ2』
『マリオカート アーケードグランプリ』の続編。笑える新フレームの追加など、ナムカムをパワーアップ。レースで集めたマリオコインをカードに貯めていくと、スペシャルアイテムやキャラクター専用カートなどの賞品がもらえる。
――その後、『マリオカート アーケードグランプリ DX ※25』(2013年) が登場します。先に『マキシマムチューン4 ※26』(2011年) で導入していた、全国のプレイヤーの分身と対戦できるモードも採り入れられていますね。
※25 『マリオカート アーケードグランプリ DX』
2013年稼働。『マリオカート アーケードグランプリ』の3作目。実況は声優の松本梨香が担当。2人チームの合計ポイントを競う「ふたりで協力モード」や、全国のプレイヤーの分身と対戦してポイントを貯めていく「全国対戦モード」を新たに実装。
※26 『湾岸ミッドナイト マキシマムチューン4』
2011年稼働。『マキシマムチューン』シリーズの4作目。 全国ネットワーク対応により「全国分身対戦モード」が実現。インターネットを介して全国各地のプレイヤーの分身と戦える。マツダ、ミツビシ、ニッサン、ルーフ、スバル、トヨタから人気の8車種が加わり、新コースの「みなとみらい線」 も追加。
小林:はい。これまでのように、子供たちにとにかくたくさん遊んでもらおうと考えていたんですね。そこで『DX』では、全国対戦モードでいろんな人と戦えるようにしようとか、さまざまな要素を入れていたんですけど、現在、子供たちは本作ではあまりカードは使わないですね。それよりはティーンとか、20代前半の若者やカップルとか、そういった人たちがワイワイ遊ぶほうが多くなっています。だから、ちょっと狙いはそっちに切り替えていますね。
――前作『2』から5年経過し、同じ作品であってもまたプレイヤー層が変わってきたわけですね。
小山:『マリオカート アーケードグランプリ』のロケテストのときは、『マリオカート』ってすごいなと思い知らされました。プリントシール機をやっていた女の子たちが出てきて、「あー! このゲーム知ってる! 『マリオカート』知ってる人、やろうやろう!」となるんですけど、知ってる人って「今置いたばっかりのゲーム機だよ!」と(笑)。
一同:(笑)
小山:知ってるわけないじゃないかと思ったけど、『マリオカート』というブランドが、プリントシール機しかやらない女子高生を動かしたのには驚きました。スーパーファミコン版すごい!
――当時、性能の高い家庭用ゲーム機がたくさん出てきましたが、それがアーケードのレースゲーム制作に与えた影響というのはあったのでしょうか?
小山:影響は計り知れないですよね。だって車のゲームって、常にそのときのハードのベンチマークのような状態だったと思いますよ。アーケードとして、グラフィックの追求によるリアルさを求めるということは、たぶんプレイステーション2が出た時点で終わっています。中身のおもしろさで勝負するという方向にするしかない。どれだけ操縦性能を本物にしても、お客さんが来ないこともよーく分かった。なので、対戦ツールとして研ぎ澄ますのと、ゲームのおもしろさで研ぎ澄ませていくほうに振れたので、結果的にはよかったんじゃないかと思いますね。グラフィックに頼らなくなったというのは。
いいレースゲームを作ろうと考えるのが当たり前の時代だった
――今回もお話を伺って感じたんですが、皆さん素晴らしいタイトルを作られていて、そしてナムコというブランドもある中で、重圧を背負ってゲーム作りをしているという感じより、作る意欲や楽しさのほうが非常に強く伝わってきました。それが素敵だなと思います。
岡本:開発費もかけられたし、新しい技術もバンバン採り入れていこうという時代でしたね。ぶっちゃけ当時って、『ファイナルラップ』から1990年代ぐらいまで、何かとりあえず作っとけばそこそこ売れた時代でもあったので(笑)。ゲームセンター自体が景気のいい時代だった。だからそんなにプレッシャーはなかったですけどね、僕は。
――逆に、楽しくゲーム制作できる環境が、会社にあったと?
岡本:そういう環境ではあったと思います。
小山:そうですね。収支のこととか、開発マンは全然知らないですもん。その当時は。
岡本:当時はね。
小山:今は違いますよ!(笑)
小林:『マキシマムチューン』の時代ぐらいからは、ちゃんと開発も収支も考えるようになった。でも、じゃあそれで「今は予算背負っているからプレッシャーがあるか?」と聞かれると、根っから作るのが好きなので、おもしろいという感情のほうが勝ちますよね。
小山:売ることよりは、お客さんがゲームをプレイしてキャーキャー騒いでいる姿が見えていることのほうが楽しいですよね。自分がすごいことしてとんがって目立ちたいというよりも、お客さんに「超このゲームハマるぜ!」と言わせたい。そこしかやりがいがないです。その結果、お金になって返ってくると。
小林:上の人は好きなことやらせてくれていましたしね。
岡本:きっと上が苦労していたんですよ。止めてたんですよ、真上から来るプレッシャーを(笑)。そっちのほうが、下がいいものを作れるということを分かっていたので、外野からの声は上で止めていたんだと、僕は思いますけどね。
――ナムコはエレメカ(※27)の時代から脈々とレースゲームを世に出しています。レースゲームにかける思いというのは、当時からスタッフの皆さんも強かったんでしょうか?
※27 エレメカ
エレクトロニクスとメカトロニクスを組み合わせて作られた造語「エレクトロメカニカルマシン」の略。ブラウン管を使わないすべてのアーケードゲームを指すという分類が一般的。
小山:もう車のラインは必ず走ってましたよね、何かしら。
――それは車好きな人が制作者に多かったからでしょうか? それとも、会社として「レースゲームを作ろう」みたいな風土があったのでしょうか?
岡本:『ポールポジション ※28』(1982年)とか『ファイナルラップ』の頃は、車好きな人が多かったかもしれないですね。鈴鹿の8耐を見に行く人たちとかいっぱいいました。バイク通勤していた人も多かった。僕もそうですけど。
※28 『ポールポジション』
1982年稼働のレースゲーム。当時はトップビュー視点のレースゲームが主流で、本作の立体的な表現はゲーマーに衝撃を与えた。1983年には3種類のコースが追加された『ポールポジションⅡ』 も登場。
小山:「スポーツカー最高!」の時代に入社しているので、いい車のレースゲームを作るのは当たり前というか、みんながやりたいことでした。そこでどんどんテクノロジーが発展していったら、いいレースゲームを作ることについては、もう当たり前のようにやるだけです。
小林:経営方針として「レースゲーム作りなさい」というのは一切なかったという認識です。どちらかというと、会社の中にとにかく車大好き、バイク大好き、レース大好きという人があちこちにいたので、どんどんいろんなラインが出てきたという、そんな感じですね。
小山:だって、セナファンの女性もすごい多くて、セナが事故で亡くなった時に大変なことになるような時代なんですよ。トレンディードラマの女王の鈴木保奈美が、F1の解説者と結婚しちゃっていたぐらいですから(笑)。
――説得力ありますね(笑)。
小山:それぐらい車はすごかったので、「車をやれ」と言われたんではなく、自然に「車をやんなきゃ」という気持ちを持つのが当たり前な時代だったんです。
取材/大堀康祐
ゲームプランナーなどを経て、仲間3人とともに1994年にゲーム開発会社マトリックスを設立。2016年にゲーム文化保存研究所を設立。
取材・文/忍者増田
フリーライター。元ゲーム雑誌編集者。忍者装束を着て誌面やWeb上に登場することも多い忍者マニア。https://twitter.com/Ninja_Masuda
協力/ゲーム文化保存研究所(IGCC.JP)
https://igcc.jp/