アイドルプロデュースゲームというジャンルを開拓し、人々を魅了した『アイドルマスター』。「恋愛」ではなく「応援」という、アイドルとプロデューサーの絶妙な距離感や、ひときわ目立つライブタワーを擁する筐体、そしてネットワークを利用した全国のプロデューサーとの競い合い……。2020年、15周年を迎える『アイドルマスター』、その起源であるアーケード版『アイドルマスター』はどのように作られたのでしょうか?
第6回 アーケード版『アイドルマスター』誕生秘話 前編
小山順一朗
石原章弘
『アイドルマスター』の企画の発案者。アーケード版『アイドルマスター』ディレクター。長らく『アイドルマスター』シリーズ総合ディレクターを務めた。 現在は株式会社グッドスマイルカンパニー所属。
梅木馨
『アイドルマスター』の関連商品展開、楽曲の権利調整、興行イベント関連を担当。現在、バンダイナムコエンターテインメント 第2IP事業ディビジョン 第1プロダクション 2課 マネージャー。
深見和佳子
初期から『アイドルマスター』の企画・ディレクションを担当。小鳥さんデザインの発案者。現在、バンダイナムコスタジオ 第3スタジオ 第7プロダクション コンテンツ(企画)パート ゲームデザイナー。
三枝芳宏
筺体、ロゴ、衣装、グッズなど、『アイドルマスター』関連の様々なデザインを担当。現在バンダイナムコアミューズメントラボ 開発本部 メカトロ部 デザイン課。
白井崇文
『アイドルマスター』の筺体の電気設計を担当しつつ、ユーザーとの交流面でも貢献。現在、バンダイナムコアミューズメントラボ 開発本部 メカトロ部 メカトロ2課。
坂上陽三
『アイドルマスター』シリーズ総合プロデューサー。『アイドルマスター』の育ての親。現在、バンダイナムコエンターテインメント 第2IP事業ディビジョン第1プロダクション エキスパート。
『アイドルマスター』誕生の発端は、『ドラゴンクロニクル』とオーディション番組
――まずは、アーケード版『アイドルマスター』(※1)(以下『アイマス』)(2005年)のプロジェクトが立ち上がった経緯からお伺いしたいと思います。
※1 『アイドルマスター』
2005年に稼働を開始した、プロデューサーとしてアイドルを育成するナムコ(当時)のアーケードゲーム。プレイヤーは芸能事務所「765プロダクション」のプロデューサーとなり、レッスンやオーディションを通してトップアイドルを育て上げていく。
小山:まず『ドラゴンクロニクル』(以下『ドラクロ』)(2003年)がきっかけであったのは間違いないですね。
石原:リライタブルステージ筺体(※2)のシリーズ第1弾で『ドラクロ』が企画されていたので、コンバージョンキット(※3)として、次のタイトルを考えようということで検討が始まりましたね。
※2 リライタブルステージ筺体
専用のリライタブルカード(※4)にプレイデータが記録される、ナムコ(当時)オリジナル筐体。タッチパネル付きのステーション筐体と、ランキングなどを表示するライブタワーから構成される筺体。
※3 コンバージョンキット
筐体そのものを活かしたまま、中の基板などを入れ替えることで新作にするための筐体向けの改造キット。
※4 リライタブルカード
筐体から排出される、プレイデータやイラストが印字された専用カード。カードに印字されている文字情報や、内部データの書き換えが可能で、『アイマス』のリライタブルカードであるプロデューサーカードには現在プロデュース中のアイドルが表示される。
小山:リリース前、『ドラクロ』は売れないかもと言われており、「小山、これはダメになるかもしれないから、(第2弾の『アイマス』を)何とかしてくれ」って石川祝男さん(※5)から言われまして。
※5 石川祝男氏
1978年ナムコ(当時)入社。1989年に開発した『ワニワニパニック』が大ヒット。『アイマス』ではエグゼクティブ・プロデューサーを務める。その後、バンダイナムコホールディングスの会長となり、2018年に退任。
石原:当時は家庭用ゲームが好調だった分、アーケードゲームへの風当りが強くて、何か作らなきゃって空気はすごかったんですよ。「このままだとヤバいな」みたいな(笑)。
深見:「無難に生きながらえよう」じゃなくて、もう「やらなきゃ!」みたいな感じで。
石原:とにかくゲームセンターに人を呼ばなきゃってことになった。当時、ちょうどみんなが携帯電話を持ち始めていたんで、メルマガを送って呼ぼうと。でも、ただのメルマガだとつまらないから、女の子からのメールにするっていう案が出た。そのワンアイデアと、リライタブルステージ筺体の第2弾を作るというあたりが結びついて……。
小山:リリース前の読みがはずれて『ドラクロ』はヒットしたのですが(笑)、その要因は「育成」とか「成長」じゃないかと。それで、いつかギャルゲーを作ろうと思っていたこともあって、そういった要素と「女の子」をくっつけようと。ちょうどそのとき、テレビでオーディション番組が大人気で。とりあえずテーマを「アイドル」にしようって決めて。競争してみんなで勝ち取っていくっていう流れが、何となく全国オンラインと合ってそうだったので。内容的には、トレーニングやって歌を歌うっていうのは、ほぼ決まっていた。それをゲームとしてどう現実化するかを、ずっと模索していました。
声優さんたちと二人三脚で、手探りのゲーム制作
――「リライタブルステージ」という新しい筺体を販売する際に、第2弾として『アイマス』を販売する用意はされていたんでしょうか?
白井:2002年のAMショーのときに『ドラクロ』の横にこっそり1台置いていたね。
小山:置いた、置いた。『(仮称)アイドルゲーム』で置いた。
石原:出展したと言っても、そのときの中身の完成度は本当に技術研究レベルだったので、実際にプレイヤーからの反応もなんとなく触って「ふーん」ぐらいの感じでした。
小山:当時まだタッチパネルが珍しかったので、バストアップの春香に触れて、コミュニケーションをとるだけのものを出展しました。隠し要素もあったんだけどなあ。
――それが、最終的な製品に近くなっていった明確なタイミングは……?
小山:変わったとするんだったら、やっぱりアイドルのバトルの仕組みが見えたところですね。
石原:そうですね。そこから一気に固まった。
小山:制作会社は大阪の「株式会社メトロ」さんだったんで、毎週のように大阪に行っていましたね。
石原:毎週2~3日ぐらいメトロさんに行っていましたが、それでも企画がとにかく固まりませんでした。よく小山さんが言っていたのは、「歌は採点基準もよくわかんないし、どうしても説得力がなくなる」と。なので、もうちょっと勝ち負けのはっきりするゲーム性にもっていこうと、そのときは「音ゲーにする」って言っていたんですけど。
小山:メインのバトルの仕組みができていないけれど、とりあえず周りの企画ができて、それで動き始めて……材料はどんどんできていくんですよね。育成パート、ミニゲーム、コミュニケーションパート、シナリオなど、パーツ的なものは、とりあえず発注はかけていて、どんどんでき上がって……。
石原:シナリオ上、アイドルが個別に絡まなかったのと、ライターも2人だったので、どんどん作っていかないとって、パーツはできあがっていきました。曲もそのときから全アイドル分録るということだけ決まってて、全員歌わなきゃって。結局は9人×10曲の90曲プラス、全体曲『THE IDOLM@STER』という形でまとまりました。
小山:声優さんを、横浜クリエイティブセンター(当時)のレコードディングブースにずっとカンヅメ状態にしたまま、歌ってもらったり、しゃべってもらってたりしたよね。
深見:当時、水瀬伊織役の釘宮理恵さんと三浦あずさ役のたかはし智秋さんなどはキャラクターソングを出していましたが、まだほとんどの人が本格的に歌を録ったことがないという感じでしたから。
石原:僕たちも収録がはじめてでしたが、時代的にもまだまだ声優さんが積極的に歌を歌う時代じゃなくて。
小山:「声優さんに歌わせていいものなのだろうか」ということを言っていたよね。
石原:社内のサウンドスタッフも、仕事ではボーカル曲を誰も作ったことがなかったので、社内で「歌を作りたい人募集!」って言ったら何人か集まった。そのメンツで、1人1~2曲作ろうということになりましたが、とにかく、みんな手探りでした(笑)。
小山:手探りだね。
小山:メンバー全員に10曲歌ってもらうのは大変だった。しかも、3キャラでステージに出す仕様に決めていたので、全員にハモリをさせようとしたかったんだけど、収録はとんでもなく大変なことになるので、断念してユニゾンという形になった。それでもあきらめきれずに、メトロさんと相談してパートエディットという仕様を入れた。だれも使ってくれなかったけど……。
一同:(爆笑)
小山:ということで、歌わせる仕組みとか、素材とかはどんどんできていくんですけど、肝心の勝敗を決する仕組みは1年ぐらいまったく決まっていない(笑)。
深見:育てて戦わせるっていう概念だけみんな持っていたので、育てるところは作っていたし、何らか戦わせるシステムは絶対にあるもんだっていう前提で進んではいたんですけど、どう戦うんだというのだけがずっとない状態で。
小山:最初はテレビに同時に各プロデューサーのアイドルがみんな出ているという案があって、視聴率を競うシステムにしようか、とはよく言っていたんですけど、どうもしっくりこなくて。でも、実はターニングポイントがあったんだよ。『マリオカートアーケードグランプリ』(アーケードゲーム版『マリオカート』)などのディレクターをやっていた小竹さんに、コメントをもらったタイミングがあって、「小山さん、テレビに出すのはご褒美にしたらどうでしょう」って言われて、「えっ! おもしろい!」と。じゃあテレビに出すのはご褒美にするんだったら、プレイヤーにやってもらうのはオーディションでいいのかなと思って、「オーディションにしようよ」って提案して、みんなでオーディションの仕組みをうまく利用する方法を考え始めました。
石原:そうですね。でも最初は、オーディションも全然ピンとこなくて。ただ、延々と考えていたら、インターネットオークションの入札締め切りギリギリで落札してなるべく安く落札するという仕組みがヒントになった。「駆け引き」をゲームにしようと。
深見:出せる手を限定した「じゃんけん」というワードもみんなで盛り上がっていて……。
小山:ああ、そうだ、そうだ!
石原:最終的にオーディションシステムは複雑になりすぎて説明が大変難しいことになりました。奥の深さを気に入ってくださったユーザーさんもいましたが、でもやっぱりアイドルという優しそうなテーマのわりには、激しくムズい(笑)。ロケテストのときには、ゲーム的に途中リタイアすると、すごくにらまれて終わるエンディングが入っていたんですが、多くの人はそのエンディングになっちゃっていて。
小山:(笑)
石原:失敗するとメッチャにらまれて去られるので、 ロケテストでプレイした人に 「トラウマになる」というアンケートをもらってしまって。
三枝:癒やしが与えられず(笑)。
白井:その「にらまれて去られるエンディング」を見て、筐体の前で泣き崩れた子がいて……(笑)。
一同:(爆笑)
石原:システムが厳しく、エンディングも厳しく、ちょっと厳しい方向にゲームが向かっていた。どんどん組み上がってはいたものの、シビアすぎる。だけど、ロケテストをしてみたら、こっちが思っているより深くシステムを理解してくれる人も多くいて。そのときようやく「いけるかも」って思いました。それまではみんな「売れるのか壮絶にこけるのか全然読めない」という感じで。
小山:そうだね。ハードなバトルゲームにしたからね。しかも、オーディションで勝てない限り、ずーっとジャージ姿なんです。アイドル衣装で踊る姿を見ることができない。
石原:ただ、稼働前に心配していた『ドラクロ』の売り上げが良かったので、会社の上層部の方たちは『アイマス』のことを気にしなくなっていて(笑)。だからこの隙にゆっくりやっていればいいやと、じっくり作っていて。
小山:でも、本当にあのバトルゲームが全然できなかった1年間はかなりきつかったよ。我々もメトロ側ももう頭おかしくなりそうになってたよね。どんどん素材はできあがってきているけど、バトル部分がいつまでもできなくて、開発期間もどんどん延びていて……。石川祝男さんから「小山、どうするんだ。」ってすごい言われていたんだよ、リアルプロデューサーの僕は!(笑)
目指したのは、アイドル=萌えじゃなくて、COOLなプロデューサーの格好良さ
――次に、筐体制作のお話をお伺いしたいと思います。
三枝:最初に『ドラクロ』ありきの企画だったので筐体自体は変えられなかったんですよ。なので最初『アイマス』用として白い筐体を描いたりしたんですけど、共通の黒い筐体をベースに成型品などの変更で『アイマス』に合うようにイメージを持っていく必要があって。サイバーなイメージのグリーン系の成型品やステッカー装飾をいろいろ検討して、今のデザインに落ち着きましたね。
――何か、参考にしたイメージはあったのでしょうか?
三枝:萌え系の筐体デザインじゃなくて、クールなプロデューサー感のあるデザインに、というのを意識しました。なので、グラフィックもプロデューサーさんが持っているタブレットだとか音響機器、あとソフトの中のユーザーインターフェース(以下、UI)感も筐体のほうにも入れ込もう、みたいな感じでやっていましたね。
深見:クール系でまとめましたよね。ギャルゲーに見えないようにっていう。
石原:やっぱりゲームセンターの機械なので、筐体の外観を可愛くしすぎるとやりにくいという意見は最初からありました。だから、基本格好いい方向で行くということだけはブレず……。
三枝:『ドラクロ』が渋い赤系だったので、イメージを変えるにはグリーン系かな、と……。
石原:そうですね。最初はUIも可愛くなっちゃってたんですけど、結局緑一色のクールめなデザインにまとめてもらって。そのへんからちょっとずつ固まってきて、三枝さんの絵が入ってきて、筐体が緑になって、ライブタワーっていうリアプロジェクション、50インチのライブ表示用筐体を……。
白井:これ、「50インチは場所取るからコンパクトにしよう」ってロケテストのときに言われて、2か月で29インチモニタのライブタワーを作ったんだっけ?
石原:タッチセンサーも付いてましたよね。
白井:最初の試作のときには何もそういうのがなくて、「ずっとランキング見ているのつまらん」って言われて。でも操作できるようにスイッチとかつけちゃうと「スタイリッシュなデザインにしてもらったのにダメじゃん」という話になって、「じゃ、手をかざしたら次のリプレイに飛べるようにしよう」って。
小山:男子トイレの赤外線センサーを活用して。すごい最先端です!!
一同:(爆笑)
三枝:(ライブタワーについている)このでかいスピーカーはダミーです。プロフェッショナル感のある外観にしたいな~と思ってコンサート会場にあるようなでかいスピーカーをつけたりしたんだけど、実際は音は鳴りません(笑)。
白井:とある業者さんに「スピーカーの形だけ欲しいので、後ろの磁石とかコイルはいらないです」って言って作ってもらった(笑)。
小山:衣装も三枝さんがいろいろと作っていましたよね。
三枝:そうですね。何でも屋なので、衣装もやりましたけどね(笑)。膨大な数があって、これ、本当にえらい仕事でした。
石原:アイテムは結構メトロさんのほうで作っていたんですけど、衣装はナムコ(当時)側で作っていました。
深見:その後の『アイマス』シリーズや、今自分も関わっている『ミリシタ』なんかでは、共通デザインの衣装やソロ衣装なども多いんですけど、当時はそういう考えじゃなかったから、キュート、クール、コズミック、なんて3種類の方向性があって、しかもそれを9キャラ全部違うデザインでやっていたんで……。
三枝:そう。あれが大変だった。私は一体何屋なんだって(笑)。本当にあのときは、女の子の衣装ばっかり描いていましたね。
小山:本当は三枝さんは『ワニワニパニック』(1989年)とか、ああいう筐体のインダストリアルデザイナーなんですが……。
――インダストリアルデザイナーの方がキャラの衣装を……。
三枝:私は個人的にアイドルが大好きだったので、それを活かして楽しんでやっていましたね(笑)。
深見:ギャルゲーの世界でアイドル衣装を探すと、現実にはあり得ないような、旧態依然としたデザインの衣装ばかりだったんで、本当のアイドルが着ているみたいに現実っぽくしたかった。そこで、リアルアイドルに精通している三枝さんにお任せしたら、「あっ、確かにこんな感じ!」っていうのが上がってきて、すごく良かったです。
三枝:窪岡俊之さん(※6)の初期衣装デザインはアニメ寄りだったので、当時の現場の流行りなどを意識して作ってました。趣味で週末とかにアイドルライブに通っていたので(笑)、活かしてやっていましたね。
※6 窪岡俊之氏
アニメーター、キャラクターデザイナー。1963年生まれ。北海道出身。アーケード版『アイマス(765プロオールスターズ)』のキャラクターデザインを担当。
石原:結局衣装は、三枝さんが巻き取ってしまって、もう「全部こっちで作っちゃう」ということになりました。
梅木:三枝さんは、『アイマス』の仕事は何持っていっても快く引き受けてくださったので頼もしかった(笑)。今、ここに並んでいる関連商品のデザインとかもね、「やってください」と。
石原:リリース以降も当初は関連商品のデザインはほとんどプロジェクトでやっていました。『アイマス』は、とにかく手弁当で作り続けていた記憶しかないです(笑)。
小山:ファン用に1000円のプロデューサーブックを作ったよね。
梅木:ブックレットと一緒になっているCD型のやつ。あれが一番最初の商品化でしたかね。
――2005年のAOUショーで行われた「アイドルマスター6/9(きゅうぶんのろく)」で展示していたものですよね。
石原:あれが最初の商品なんですが、想定より売れたので「これはもしや……」って商品の数が爆増しました。
白井:グッズが出始めの当時は、「どれが売れると思う?」って、三枝さんところに送られてきた『アイマス』関係のいろんなものを自分も見せてもらって感想を求められた。欲しいと思うか思わないかだけでも良いからって(笑)。
©窪岡俊之 ©BANDAI NAMCO Entertainment Inc.
※取材は3月上旬時点の内容です。
【取材後記】
ゲームセンターにお客さんを呼び戻すためにやるしかない! その共通の想いを胸に『アイマス』のプロジェクトはスタートしました。
しかし、アイドルゲームという前例のない方向性に開発は難航しました。それでも傾けられる情熱に、多くの人々が引き付けられ、様々な知恵と工夫とが投入された結果、生み出されたアイドルたちに命が吹き込まれていきます。そこに来て、ようやく「これはいけるかもしれない」との希望が開発スタッフたちの間に次第に芽生えていったそうです。
次回の更新は【8月20日(木)】!ひとまず形になった『アイマス』のお披露目。ロケテストでのご苦労や思い出話を語っていただきます。
どうぞ、お楽しみに!
取材/佐伯憲司
フリーライター。ゲーム雑誌やニュースサイトなどに関わり、現在フリー。『アイマス』は『(仮称)アイドルゲーム』から。赤羽会館のライブの前に雪の中、公園でコールの練習をしていたPの皆様の姿が印象に残っているとか。
文/忍者増田
フリーライター。元ゲーム雑誌編集者。忍者装束を着て誌面やWeb上に登場することも多い忍者マニア。https://twitter.com/Ninja_Masuda
協力:ゲーム文化保存研究所(IGCC.JP)
https://igcc.jp/
アーケード版『アイドルマスター』プロデューサー。『アイドルマスター』の生みの親。現在、バンダイナムコアミューズメント プロダクトビジネスカンパニー クリエイティブフェロー。